普化明暗尺八、明暗寺にて

活動予定


明暗古典尺八の由来

普化禅師
普化禅師画像
賛前永源寺住
職高木独鳳老師
(明暗寺蔵)

 その淵源は、九世紀の中頃、唐の高僧普化ふけ禅師は常に鐸を振り鳴らして

明頭来也明頭打、暗頭来也暗頭打
四方八面来也旋風打、虚空来也連架打

と云う「四打の」を唱えて、市中を行化ぎょうけ托鉢して居られました。河南府の張伯居士がその高僧を慕い、また、霊妙な鐸音を聞いて心を惹かれ弟子入を乞いましたが、許されなかったため、自己習得の吹管で普化振鐸の真髄を写しとって作曲したのが、後世普化尺八の根元曲となった明暗的伝三虚霊の一つ「嘘鈴」の曲だと云われています。

法燈国師像
法燈国師像
(興国寺)

 我国への渡来は、心地覚心しんちかくしん 、のちに由良興国寺の開山となられました 法燈国師が建長元年の春(中国の)宋に行った当時、張伯十六世の孫、張参から張家伝来の「嘘鈴」の曲を習い、更に「国作」「理正」「宗恕」「法普」の四居士を伴い帰朝、この曲を法弟の寄竹了円(のちの虚竹禅師)に授けられたのが日本への普化尺八伝来の始まりです。
 その後寄竹は伊勢の朝熊山の 虚空蔵堂こくうぞうどうに夜通し参籠して夢中に感得する処あり「虚空」「霧海?むかいぢ」の二曲を作曲し、明暗開宗根元としての「三虚霊」を完成して竹音に依って無上の大道を体得され、偈を唱え鐸を鳴らすかわりに尺八を吹いて畿内を托鉢行化して衆生を接化済度されましたので世人呼んで「今普化」を喧伝されたと云われています。
 晩年山城国宇治の里に一草庵を結び「朗庵」と号し、吹禅三昧の日を送り、1298(永仁6)年7月28日、師の法燈国師に先だつこと三ヶ月、その地で寂滅されました。

 その後庵跡に師を祀る墓が建ち、里人は之を「普化塚」またはその形から「亀塚」とも呼び今に至っています。禅師没後、法嗣の天外明普師が、京洛の地に一寺を建立し「虚霊山明暗寺」と称し、今はなき虚竹禅師を勧請して開山となし、普化宗を唱え、此徒吹管を以って、法務と為し、読経を為さず一枝の竹管を以って市中を行化托鉢して禅師の遺風を後世に伝えました。なお後世の虚無僧の起源は楠木正勝公が南朝衰微後この宗門に入り「虚無」と号し、常に天蓋を冠り、諸国を遊行し、戸々に尺八を吹いて、南朝復興の機を計ったので、世人は「虚無者」と呼びその風儀が始まりだと云い伝えられています。
 このように日本の歴史に新しく「普化尺八」または「明暗尺八」と云われる竹音によって自らを修め衆生を済度しようとする「尺八禅」の一派が興ったのです。

明暗寺の沿革

明暗開祖朗庵虚竹禅師大和尚
明暗開祖朗庵
虚竹禅師大和尚

 生涯を吹簫すいしょう三昧、行雲流水の境涯として送り、一寺を構えることなく、晩年宇治の地に「吸江庵きゅうこうあん」と云う小庵を結んで亡くなった虚竹禅師の宗風は、法嗣の天外明普師によって、引き継がれ京都の白川に一寺を建て、「虚霊山明暗寺」と号し、相伝の三曲「嘘鈴」「虚空」「霧海?むかいぢ」を根本の仏典曲として宣揚するに及んで、普化禅宗門開創の発祥を見るに至りました。

 その後室町時代末期から次第に繁栄し、江戸初期には十八派、百四十ヶ寺と激増し、幕府の庇護の下、その権勢と結んで「普化禅宗門の儀は武家の隠れ家にして不入守護の宗門也」との慶長年間の掟書をたてに、治外法権的な立場に立って特殊な教団として発達していきましたが、延宝年間、関東の一月寺いちげつじが普化禅宗門を形成し、鈴法寺れいほうじと相並んで諸国虚無僧諸流総本寺となるに及んで、明暗寺は別に興国寺末虚無僧宗門本寺として関西以西の虚無僧支配に任じました。
 更に元緑年間、第十四世淵月了源の時代に、時の京都所司代板倉重宗公の配慮により、同寺は三条白川橋の畔に移建され、次いで妙法院の寺領の一部、大仏の南隣の本池田町に移りました。

 このように明暗寺は幾多の盛衰を繰返しながら幕末を迎え、時の看主三十三世玄堂観妙はその門弟素行と共に国事に奔走し、蛤御門の事件に連坐して幕吏に捕えられ、1866(慶応2)年11月に斬首の刑に処せられ、素行も出獄後病死すると云った悲劇もありました。そして三十四世自笑昨非の代に至って禁令に逢いました。即ち1871(明治4)年10月、大政官布告によって普化宗は廃宗、虚無僧托鉢は禁止、更に全国普化宗寺院は廢毀され、明暗寺もその運命より抜け出せることなく、昨非と懇意にしていた東福寺山内の善慧院ぜんねいん の住職、爾瓊林和尚に、開山虚竹禅師像、並びに虚霊山寺額、さらに開山以来三十三世の住職、院代及び看主の霊牌を依托し、自らは、還俗して明暗覚昨と名のり、ここに普化宗としての明暗寺の歴史は一応の終止符を打つ事となったのです。

 1890(明治23)年7月に、「明暗教会」が設立され、規約を制定し、虚無僧行化の印鑑(吹簫行化証)を発行して、一般僧侶の托鉢法規に準拠し、虚無僧風儀の再現を見るに至りました。それに伴い、樋口対山が教会の訳教師(尺八指南役)となり、散逸した明暗寺所伝曲の蒐集、整備、復興に専心努力して、中興の祖として中絶した法系を承けて35世となりました。

 1914(大正3)年、対山没後に小林紫山が36世を継承し、終生明暗本曲の宣揚と指導に当り、師伝の曲から32曲の譜を整備し、更に明暗古典本曲を定型化し、明暗所伝本曲の吹奏の基礎を確立しました。

 1938(昭和13)年に小林紫山が没し、その後の約10年間は法系継承が途絶してしまいましたが、1949(昭和24)年に明暗道人並びに各流宗家の推挙により谷北無竹が37世を継承いたしました。

 1953(昭和28)年、谷北無竹が看首職を退位されて後、同年に法系38世を小泉了庵が継承され、1972(昭和47)年に引退されました。同年、39世として福本虚庵が就任されましたが、1976(昭和51)年に福本虚庵が急逝のため、同年、40世として芳村普庵が看首職を継ぎました。

 1991(平成3)年4月に芳村普庵がその職を引退し、同年に児島抱庵が当代として41世を継承し現在に至っています。

明暗導主会

 明暗導主会の沿革は、廃仏毀釈以後の1885(明治18)年、名古屋から尺八で身を立てるべく志をもって京都に入った樋口対山は、散逸した尺八本曲の収集、あるいは他流、他派よりの移入を試み、明暗本曲の集大成に尽力されました。また明暗教会の譯教師(尺八指南役)に就任するなど後世、明暗尺八中興の祖と言われるほどに明暗尺八復興に貢献されましたが、志なかばの1914(大正3)年11月に59歳の若さで急逝されました。

 樋口対山没後の明暗尺八の命脈を繋いできた対山の秘蔵の弟子小林紫山(明暗36世)をはじめ今津玄山、小泉止山、長谷川故山、田中碧山、富森虚山等によって1927(昭和2)年12月京都市御幸町佛光寺上ルに「明暗根本道場」を開き「明暗導主会」の前身「明暗同人會」を設立されました。小林紫山は当代の明暗尺八の名手であり、樋口対山がやり残した明暗譜の整備に尽力するとともに、文筆にも秀で「尺八秘儀」「尺八講義録」「尺八本流 明暗吹簫法基階」などの名著を残し、また同人誌「大明暗」を刊行し大いに明暗尺八の宣揚に努め、明暗尺八の向上、発展に精力的に活躍されましたが、過労が原因で1938(昭和13年)11月、62歳で急逝されました。

 小林紫山没後、導主も増え、1961(昭和36)年5月に小泉止山、今仲章月、松本圭山人、安本五山、髙藤黄茅子、浮田明山、塚本竹甫、朝倉呉竹、谷北謙二、石田白雲、浅野圭山、大谷宗修等によって新たに明暗寺所伝の尺八本曲を以て普化禅師、法燈国師並びに虚竹禅師の洞簫立義の昂揚に努め、明暗寺を護持協力し後援することを目的とする「明暗導主会」が結成されました。

 1994(平成6)年9月、第1回明暗道人物故者追善の「全国明暗尺八献奏大会」が明暗寺で開催され、全国より明暗道人が参集し45曲の献奏と併せて虚無僧55名が京都市中でルアンダ難民救済義援の虚無僧行化托鉢を行いました。以後、毎年秋に明暗寺と地方で交互に大会を開催しています。

 また、1997(平成9)年10月には「虚竹禅師700年大遠諱」の法要を厳修し開祖への報恩と、明暗尺八発展祈願の献奏大会を執り行いました。
 献奏大会と併せて虚無僧による「阪神淡路大震災遺児義援行化托鉢」や「東日本大震災義援行化托鉢」等の活動も行ってきました。

 また、各地においては、和歌山県由良の興国寺(法燈会主催)、高松の法然寺、四国八十八ヶ所霊場、岐阜の護国之寺、兵庫県伊丹の本泉寺、大阪藤井寺の潮音寺等で毎年定期的に献奏大会を行っております。

 そして、2016(平成28)年10月には奈良・東大寺にて、1日は虚無僧お練りと大仏宝殿にて献笛、2日は「全国明暗尺八献奏大会」を執り行いました。

 現在、このように全国で免許皆伝を授与された200余名の導主が、明暗尺八の伝承、門人の育成にと日々研鑽に努めているところです。


明暗道人物故者追善 第一回 全国明暗尺八献奏大会

虚無僧行化参加者
(クリックで拡大します)

  • photo01全国明暗尺八献奏大会
  • photo01大仏宝殿献笛

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